艦内神社ノ世界

軽巡天龍の新資料発見に伴う艦内神社リスト修正とその見解

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※この記事は個人見解の強い記事です。

 軽巡洋艦天龍の守護神については、今までは「皇國發行所[編]『皇國』大正12年2月」、および「神社協会[編]『神社協会雑誌』大正12年2月」から次の記事が発見されていた。

軍艦天龍、神璽奉祭
海軍兵学校生徒は同校練習艦天龍にて十二月十二日伊豫大三島國幣大社大山祇神社に参拝し、武運長久、海上安全の祈祷を奉仕し同艦守護神として神璽を奉祭せり。

 これについて神社関係の本からの出典であり、それなりに信頼のおける記事だろうと考えていたのだが、今回自分が行った新聞調査でその記事の内容と矛盾する新しい資料が発見されてしまった。昭和4年の大阪朝日新聞広島版の記事である。

tenryu

守護神を祀る 天龍艦内に
呉所属練習艦天龍は艦の安全と乗組員の武運長久を祈る守護神を祀っていなかったが、今回日本海海戦に参加し赫々たる武勲を残しながら廃艦処分に附せられて最期の日を待っている旧巡洋艦千歳の艦内に祀ってある千歳神社を奉遷し天龍の守護神とすることになった

大阪朝日新聞広島版 昭和4年4月10日

 このように、大阪朝日新聞の記事によると、昭和4年まで天龍艦には守護神がなかったとの記述がある。即ち艦内神社も存在していなかったことになる。

 この二つの記事は守護神についての記述が矛盾した状態であるが、おそらくはどちらかの記事が間違いということではなく、神社側と艦側での守護神に対しての認識の違いが原因ではないかと思われる。
 大正12年に天龍艦に祭祀された大山祇神社の守護神は、おそらく実体は「神札」だったのではないかと思われる。神社側としてはそれを「艦の守護神」として考えていたが、天龍艦の側では単なる「お札」としてしか見ておらず、艦内にそれを祀る奉斎所(神棚)も作られなかったのではないかと思われる。
 神札と守護神の関係は軽巡川内でも軽く扱っているが、このあたりの扱いは艦によって考え方がまちまちであり(川内艦では神札も祠に納めている)、さらに艦艇ごとの細かい事例を発掘していかないと解明は進まないであろう。

 この事例について、艦内神社リスト上の扱いをどうするか悩んだのだが、当サイトではあくまでも「艦内神社のリスト」であることと「当時の艦艇内視点での認識」を優先することにした。結果、昭和4年まで天龍艦には艦内神社は存在していなかったという扱いに変更し、大山祇神社の判定について「△」への格下げを行うことにした。
 このあたりは各研究者の見解や今後の新資料発見などで更に変更される可能性がある。特に天龍艦については写真帳や軍艦案内などの艦側の公式資料はまだ見つかっていない状況である。

 また、廃艦予定の艦艇から別の艦艇に奉遷したという話もかなり珍しいものであり、少なくともこの記事で初めてこのケースを知った。千歳神社と呼ばれていることから艦内神社であることは間違いと思われるが、巡洋艦千歳に艦内神社があったという話はこの記事で初めて知ったため、この艦内千歳神社についての情報は分霊元など含めて一切不明である。

 このように、艦内神社は新資料の発見で突然今までの通説がひっくり返ったりする界隈である。今後もこのようなことはしょっちゅう起こることが予想されるのでご留意頂きたい。

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