艦内神社ノ世界

軍艦衣笠の艦名由来を追う

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※この記事はかんたんのゆめ 【艦艇史料研究】軍艦衣笠の由来を追う」の加筆版です。
平野神社

平野神社

軍艦衣笠の由来の山はどこなのか?

 神戸川崎造船所にて1924年1月に起工、1926年10月に命名進水、そして1927年9月末に竣工した「軍艦衣笠」は、一等巡洋艦(重巡洋艦)と言うことから無論山の名前から命名されたわけであるが、全国津々浦々にある「衣笠山」の一体どれが由来であるのか、実は建造当初から現在まで様々な説があった。

 候補として有名なのは神奈川県横須賀市にある衣笠山(134m)と、徳島県吉野川市にある高越山(1133m)である。1966年に福井静夫氏が書いた「日本巡洋艦物語」では『衣笠は徳島が正解で横須賀は誤りである。ただし、横須賀に衣笠山があることも考慮されたかもしれない』とある。
 また、1974年に高須広一氏が世界の艦船207号に寄稿した「艦船名考」では『就役二ヶ月ほど前に公文書【軍艦衣笠艦名起原に関する件】で艦名由来について照会されたこと』を取り上げており、由来を横須賀としている。

 

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015649300、公文備考 艦船11 巻40(防衛省防衛研究所)

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015649300、公文備考 艦船11 巻40(防衛省防衛研究所)

 両者ともソースは戦前の衣笠竣工前後の資料にあり、前者の徳島説は昭和3年(1928年)7月に海軍嘱託浅井将秀が書いた「日本海軍 艦船名考(東京水交社)」にある『344 衣笠 山名に採る、衣笠山は高越山の別称なりこの山又摩尼珠山、阿波冨士等の称あり』が根拠と思われる。(桜と錨の海軍砲術学校でPDF公開)

 後者の横須賀説は昭和2年(1927年)8月に衣笠艤装員長が海軍省軍務局第一課長に宛てた「軍艦衣笠艦名起原に関する件」(Ref:C04015649300)が根拠であり、これには『本艦艦名「衣笠」ハ神奈川県三浦郡所在ノ衣笠山ニ因ミ命名セラレタルモノト思考致居候処果シテ然ルヤ為念確実ナルトコロ承知致度候条何分ノ御回示相成度 右照会ス → 軍務局一課長「御考察ノ通リ」』とある。時期的に艦に祀る氏神神社を決める為の参考にしようとしていたのではないかと思われる。

 通常であれば公文書も残っている横須賀説に間違いないのであるが、衣笠に関する資料を集めていると何故か新たに三つ目の候補が出てきてしまった。

三つめの艦名由来候補
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015559900、公文備考 文書1 巻24(防衛省防衛研究所)

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015559900、公文備考 文書1 巻24(防衛省防衛研究所)

  昭和3年(1928年)1月に出された公文書に「規則書類送付の件」という一見変哲も無い名前のものがある。内容は『昭和三年一月十二日 横須賀 衣笠 副長 軍務局戸塚中佐殿 予テ今泉横須賀鎮守府副官ヲ介シ貴局ノ御内意様置候次第ノ平野神社、走水神社及衣笠神社ニ奉納額用及絵葉書用航影ハ別紙ノ通ノモノニ有之候ニ付御了知相成 度』とあり、要するに衣笠の副長が「平野神社、走水神社及衣笠神社」に奉納額用と絵葉書用の艦の写真を各神社へ送附しようとしている物である(Ref:C04015559900(P3-4))。
 ここで出てくる「走水神社及衣笠神社」は共に横須賀の神社なのだが、「平野神社」は全く余所の京都市にある神社である。実は平野神社のすぐ近くには衣笠山(201m)がある。あの金閣寺の裏山にそびえる山である。

 なおこれらの神社に贈られた写真はすべて現存してはいるが、基本的には公開された位置には置かれていない。(平野神社は春の休憩所開放の際に見学可能、他は正月など偶然拝殿が開いていたときのみ見学可能)
 神社にこうした写真が贈られたと言うことは艦内神社がらみの可能性が高く、当初はこの三社が祀られているのではと考えていた。実際、後に入手した 1941年発行の「海軍献納画集(青甲社)」では衣笠の項に「春の平野神社」と題された絵が載っており、作者の小川翠村氏は『艦の祭神平野神社を描きました、背後には艦名の衣笠山も見えます。』とコメントしている。

海軍献納画集(青甲社)より 衣笠

海軍献納画集(青甲社)より 衣笠(青山氏提供)

平野神社奉納の軍艦衣笠写真額

平野神社奉納の軍艦衣笠写真額

  軍艦衣笠と京都の繋がりについてはもう一つ資料が見つかっている。アジ歴にある「第2268号 11.4.5 寄贈物品受領の件」 (Ref:C05035067200)で、昭和11年(1931年)に京都商業学校(現:京都学園中学校・高等学校)より軍艦旗の寄贈を受けた際の公文書である。

当時のパンフレット「軍艦衣笠案内」では・・・

 このように情報は錯綜しており、研究会内でも定期的になんじゃこりゃあという話は出ていたが、2014年4月に青山氏が神戸市のサイトに「軍艦衣笠案内」が展示されていることを発見。事態は急展開する。
 軍艦案内は軍艦絵葉書に同梱されたり、各地で軍艦見学があった際に配られていた軍艦公式のパンフレットである。中には艦名の由来や艦内神社についても高確率で書かれており、艦内神社研究にも非常に貴重かつ重要な資料ととらえている。そして、その資料にもしっかりと艦名の由来が書かれていた。以下抜粋。

・艦名及祭神衣笠神社の由来
京都の西北、足利時代の華を偲ばしむる金閣寺の附近に衣笠山あり、推古、桓武天皇を山域に遙さるるや、延暦十三年大和国に鎮座ましませし今木大神(祭神日本武尊) 久度大神(祭神仲哀天皇) 古開大神(祭神仁徳天皇) 比咩大神(祭神大日孁貴尊)の四柱の御神殿を衣笠山麓に合祀せられ、今は官幣大社平野神社と称す。本艦内に斎き祀れる衣笠神社は昭和三年九月本艦竣工の日 に其の御神霊を分祀せるものにして、更に同年十二月相模国三浦郡衣笠山近くに鎮座まします走水神社(祭神弟橘媛命)を本艦に合祀し毎年四月二日、十月十五日の春秋二季に例祭を行ふことに定められある。

 と、大変ご丁寧に奉祀日まで書かれており完璧に近い。軍艦としては京都由来の扱いとなっているようだ。

衣笠は横須賀由来では無いのか?

 このようにパンフレットでは京都由来としている軍艦衣笠。ではわざわざ海軍省に由来の照会をかけてお墨付きをもらったのは何だったのかということになる。 ただ、後に走水神社も奉祀したと書かれていることから、横須賀方面との関係について否定をしたわけではないようである。しかし、その衣笠山にある衣笠神社 は奉祀されていないようであり、では衣笠神社に送られた写真は何だったのかという謎はまだ残る。

軍艦衣笠に載せられたものと同型の三浦大介義明公像

軍艦衣笠に載せられたものと同型の三浦大介義明公像(omi提供)

 また、その後横須賀側で資料を漁ったところ、横須賀市立中央図書館にて1964年発行の「衣笠町沿革誌」が見つかる。それによると『艦名は横須賀軍港の裏山である衣笠山を取って命名されたので、衣笠村は土地の青年団の協力を得て衣笠山の旧城主三浦大介義明公の像を二体彫刻し、一体を軍艦衣笠に寄贈(片方は衣笠小学校→現在は大善寺安置)』とあった。

 要するに軍艦衣笠には、京都の平野神社と横須賀の走水神社祭神が奉祀され、衣笠城ゆかりの三浦大介義明公の像が載せられていたのだ。艦内神社に氏神+崇敬神社として複数の神社を合祀した例は多くあるが、別の場所の氏神神社同士を合祀した例は今のところ軍艦衣笠以外は見つかっていない。大変珍しい例である。
 なお徳島説とは何だったのか状態である。こちらも橘湾あたりに寄港した際に何かアクションがあるかもしれないが、今のところ調査は進んでいない。

 ちなみに、最初に艦名候補として「衣笠」の艦名を出したのは、恒例では当時の海軍大臣のはずである(その後天皇によって正式決定される)。年表によるとおそらく村上格一氏か財部彪氏となるのだが、果たしてどこの衣笠山をイメージしたものなのか、その謎は埋もれたままである。

参考文献
各種アジ暦公文書(本文参照)
軍艦衣笠案内(戦前)
日本海軍 艦船名考 1928(東京水交社)
衣笠町沿革誌 1964 <横須賀市立中央図書館蔵>
日本巡洋艦物語 1966
世界の艦船207号 1974
ふるさと横須賀 1987
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